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🌏 新シリーズ 第0章(イントロダクション) 社長になるつもりなんて、なかった。 ― 普通の少年が、理念を生きる“人”になるまで ―

■ 瀬戸田の海辺で育った少年
広島県・瀬戸田町。
瀬戸内の穏やかな海、みかん畑の香り、島を渡る風。
僕は、男ばかり4人兄弟の長男として生まれた。
曾祖母、祖父母、両親、兄弟、9人が同じ屋根の下に暮らす大家族。
家は商店と船食を営んでおり、幼い頃は活気に満ちた毎日だった。
小学生の頃からスポーツに打ち込み、習字も習っていた。
人と関わるのが好きで、誰かが笑うと自分まで嬉しくなる。
今振り返れば、それが「介護」や「人の支え」に通じる原点だったのかもしれない。
■ 家族の崩壊と、母の決断
20歳の夏。
帰省中の夜、母が僕の部屋に来て静かに言った。
「もう家を出るわ。」
理由は聞かなくても分かっていた。
父と母の関係はとうに冷え切っていたし、
後に知ったことだが、家計は商売の借金で傾いていた。
不思議なことに、その瞬間、僕の心は“安堵”していた。
——やっと母が自由になれる。
そう感じた。
母と僕たち兄弟4人は家を出て、母の実家に身を寄せた。
裕福ではなかったが、
不思議と“心のあたたかい生活”だった。
■ おじさんの教え:「筋道を大切にしなさい」
その頃、小さい時からお世話になったおじさんからよく言われた言葉がある。
「筋道を大切にしなさい。人に几帳面でいなさい。」
当時はピンと来なかった。
けれど大人になって気づいた。
この言葉は、人生のすべてに通じる「軸」だった。
今も僕の判断基準の根底には、この“筋道”がある。
■ 大阪へ―“普通のサラリーマン”を夢見て
商売人の家庭で育った僕は、
正直、商売には良い印象を持っていなかった。
だからこそ夢は“安定したサラリーマン”。
毎月きちんと給料をもらい、
日曜日は家族と過ごし、
晩ご飯をみんなで食べる。
そんな“普通の幸せ”が僕の理想だった。
1998年、医療法人錦秀会に入職。
「人の役に立てる仕事だ」と思えた瞬間、
ようやく“生きる場所”を見つけた気がした。
■ 人に恵まれ、運に支えられた日々
大阪での生活を支えてくれたのは、やはり“人”だった。
バイクが欲しくて通っていたバイク屋の社長。
お金がなかった僕に、こう言ってくれた。
「田舎の子は信用できる。おっちゃんが立て替えてやるから、
できる時に持ってきなさい。お金がなくても、遊びに来い。」
病院では“大阪の父親”のような上司に出会った。
結婚後も家族ぐるみで面倒を見てくださり、
独立を決断した時も「お前なら大丈夫や」と背中を押してくれた。
思えば僕の人生は、いつも誰かに支えられてきた。
僕は本当に“運”が良く“人”に恵まれている。
■ 独立のきっかけは、母のひと言
2010年頃。
知り合いの方から「独立してみないか?」と持ちかけられた。
夢がサラリーマンだった僕にはまったく興味がない話だったが、聞くにつれ少しずつ“欲”が芽生えていった。
母に相談すると、
「いくらかかるの?」と聞かれ、「3000万円くらい」と答えた。
すると母は笑って言った。
「家をもう一軒買ったと思えばいいじゃない。
チャンスは誰にでも回ってこないよ。
やらずに後悔するなら、やって後悔しなさい。
大丈夫、命まで取られないから。」
その一言で、決心がついた。
■ 理念との出会い。「的を視ずに矢を放つな」
独立しても全く上手くいかない日々。
そんな時、前職でお世話になった方からこう言われた。
「どうしたら良いかを考える前に“何のために”を考えなさい。
あなたは、的を視ずに矢を放っている。」
その言葉に衝撃を受けた。
そこから、**ファンクショナルアプローチ(機能分析)**を学び、
「誰のため?」「何のため?」という視点を得た。
これが、今の経営理念の土台となった。
■ 理念を“文化”にする挑戦
Mission, Vision, Value, Policy。
それらを言葉で終わらせないために、
2014年から週1回の理念研修を行った。
“働く”でも“働きやすい”でもない。
“働きがい”がすべて。
そう信じて、組織づくりに力を注いだ。
しかし、2020年のコロナ禍で研修は中断。
積み上げた文化が少しずつ薄れていった。
今、それをもう一度取り戻すことが、僕の最大の使命だ。
■ 人生は、出会いの連続
こうして振り返ると、
僕の人生は“人”に恵まれ“縁”に導かれてきた。
母のひと言、恩師の励まし、仲間たちの支え。
そのすべてが今の僕をつくってくれた。
だからこそ信じている。
人生は一度きり。だから、人のために生きると決めた。
✳️ 次回予告
🌟 第1回:「社長って、そんなに偉くない。」
肩書ではなく“人としてどう在るか”。
経営者というより「ひとりの人間」としての本音を語ります。